100キロウォーク5年間を振り返って
住友金属物流(株)中村本治(62歳)
行橋〜別府 100キロウォークとは
 「行橋〜別府100キロウォーク」は、第1回大会が1999年に開催され、今年で12回目となります。
行橋から別府までの100キロメートルを制限時間26時間内で歩きます。(チェックポイントでも制限時間を設定しています。)
走ること、およびジョグ歩行は禁止されています。
13歳以上の健康な人で、ルールとマナーを守り、自力歩行が出来、主催者が参加を承諾した方であれば、どなたでも参加可能です。
完歩者には、完歩証・バッヂが贈られます。
100キロウォーク5年を振り返って
今年で5回目、運良く5年連続完歩となった。今回の感想文は過去5回を総括したいと思います。
100キロウォークとの出会い
私は生来歩くことは好きだったので山登りや、近隣のハイキングを含め結構野外に出かけていた。
この大会を初めて知ったのは約6年程前、当時小倉に単身赴任していた時でした。単身赴任の思い出に是非一度挑戦し完歩したいと言う強い思いに駆られましたが当時、私の周囲にはこのウォークの経験者は誰もおらず、アドバイスを受けることも出来ませんでした。
また立派な感想文集が発刊されていることも知らなかったので、こくらスポーツ店で用具を調達した時、簡単にポイントを聞かせてもらった程度でした。
過去30km程度の歩行経験はあったが100kmは未知数で不安一杯でした。「100kmウォークは50kmの2倍ではない、まして10kmの10倍ではない」という言葉が重くのしかかっていました。
初めての100キロウォーク〜2006年〜
一方大会日程と義父の一周忌の法要が重なり、家内からも和歌山に帰ってくるようにと催促がありました。既に大会のエントリーを済ませ、準備を進めていたので悩みましたが、出した結論は完歩することで義父の供養をしたいと思い、家内に了承してもらいました。
従ってどんなことがあっても完歩すると言う強い意志と平素の練習を頼りに2006年11月3日の14時初挑戦がスタートしました。 コースもあまり熟知していない中、苦しみながら21時間33分で完歩出来た時の感激は5回の中でも一番でした。タイムも自分の予想よりかなり良かったのです。
出場することについては一部の人しかオープンにしていなかったので、社内誌で紹介した感想文や噂で知った多くの人から慰労と激励の言葉をいただきました。
また当時の鈴木社長から温かい激励の言葉をいただいた感動は忘れません。
2回目〜2007年〜
私にとって2回目は2007年です。
前回の苦しみを考えたら出場も少しためらっていましたが、私の感想文を読んで新たに挑戦したいという人が社内外の友人から6人程現れました。体験談やアドバイスをしていたら先輩として2回目も挑戦する羽目になりました。
さすが2回目は経験が生きてタイムは20時間56分で昨年よりわずか30分程度の短縮でしたが気分的、精神的にも楽に歩くことが出来ました。
初参加の仲間も全員完歩出来て一部の仲間とは別府で一泊し温泉で疲れを取りました。更に後日小倉にて参加者有志で慰労会を開き苦労話に花が咲きました。
3回目〜2008年〜
3回目、2008年は周囲の環境に大きな変化がありました。過去2回は小倉から出場出来ましたが、6月に60歳定年を迎え和歌山に帰ったのです。途切れたらもったいないこともあり挑戦を決めました。
当日は14時スタートなので朝早く和歌山を出発し6時間強を要し会場入りしました。
しかし移動疲れと、またウォークの途中CPでは時間を惜しむあまり足のケアーを省略したことが祟り、後半には過去に経験したことのない痛みに悩まされました。根性でゴールするもその痛みは言葉に尽くせない程でした。
でもその日別府で宿泊し温泉で疲れを取ると翌日は嘘のように回復していました。その時も苦しみましたがタイムは20時間37分で前年を20分弱短縮しました。
4回目〜2009年〜
4回目2009年の移動は泉大津からフェリーを利用して早朝、新門司に到着、朝早く和歌山からの移動に比べ身体的には楽であったが早朝着のため会場入りするまでの時間調整に苦労する。
今年は皆さんに感謝しながら歩くと決めていたので時間はそれほど気にしてはいなかったが、昨年並みにはとの思いはありました。
例年の如く淡々と歩く中で途中スピードが上がらずタイムも諦めていたが、最後の14kmで門司から参加の中野さんと歩くことが出来てタイムは20時間32分で昨年よりわずかながら5分更新できた。
2回目以降恒例となった別府での宿泊、温泉で疲れを取り夜は完歩した仲間と懇親会、これを楽しみに頑張れるのか?
翌日、別府に別れを告げ夕方に和歌山着、2週間後のマラソン(10km)に向けすぐにジョギングしている自分の姿がありました。
5回目〜2010年〜
今年5回目、過去の完歩実績から実行委員会より指導員を委嘱される。
ウォークの途中、マナー違反や危険行為に対し注意し、また参加者からの相談や質問に答える役目だ。自分はその柄ではないと思いつつ何か少しでも役に立てればと思い引き受けることにした。自ら襟を正して歩かねばと身を引き締める。
昨年同様フェリーで新門司まで、小倉で三目さんと合流し時間調整後会場入りする。高田さんとも会場で合流して健闘を誓う。今年は初挑戦で当社九州事業部の池田淳さんも参加した。スタート会場では会えなかったが健闘を祈る。
今年は3500人の参加者で12時スタート(昨年より2H繰上げ)、心配された天気も開会式では雨も無く曇りのまま順調に推移する。
先頭が12時丁度にスタート。私は7分程遅れてスタートする。
16時頃豊前市で小雨になるが、途中止んで我々を歓迎しているのか空にくっきりと虹がかかり心を癒してくれる。
中津までまずまず順調、20分程度の休憩で宇佐を目指すが途中で足の踵にマメが出来たようで痛みだすが我慢して進む、第2CP宇佐には0時10分に到着し足の手入れや暖かいうどんを食べていたら予定外に時間を費やしてしまった。短パンからジャージの長ズボンに履き替えたがあまり寒くない。空は星が出ていたかと思えば時々小雨の降る天気、但し歩きに影響する程の雨でもない。途中初参加の人から相談を受けたり、また苦しそうに歩いている人には声をかけ、時間は十分なので自分のペースを守って無理をしないようにとアドバイスや激励をした。
難所の七曲りの上り口には4時頃到着。
サービスのバナナを頂いていると「中村さん私を覚えていますか?」と声をかけられる。振り返ると野村正幸さんだ、彼とは5年前お互い初挑戦の時、顔なじみになり言葉を交わすようになった。彼は福岡県中間市の方で学校の教職に就いている。2度目の挑戦で既に20時間を切る記録を残しているが今回はスタッフとして参加していた。この大会で色々お世話になったので何かお返ししたいとの気持ちからスタッフに志願したとのこと。懐かしく少し立話しをして別れ、急坂を一気に上る。
どんなに疲れていてもこの坂は得意で10人程は抜き去った。下りに入った途中で懐中電灯に電池切れが起こるアクシデント、暗闇は危険なので前後の人の灯りを頼りに坂を下りる。後1時間辛抱すれば夜が明ける。赤松峠の歩道は熟知しているので暗がりでも行けると自分を励ます。赤松峠を下る途中うっすら夜が明けた、日出の第3CPには6時頃着。
休憩もそこそこにゴールを目指すが、マメの痛さもありピッチが上がらない。それでも休まず我慢して歩き続け最後の5kmは痛さも忘れピッチを上げることができた。
タイムは20時間41分で今年も20時間切れが出来なかったが101.3kmと昨年より1km長くなっていることを考慮すれば100km換算でぎりぎり20時間30分以内におさまるタイムである。いづれにしても反省は靴にあるが後の祭りだ。
振り返って
通算5回を振り返り完歩メダルが5個とすれば誰に感謝し奉げるか考えた結果、1つ目は故義父母の霊前にお供えしたい。
2つ目は1回目の挑戦から温かい激励を頂いた当社の鈴木信里前社長(H22年6月社長を退任されて現在は社友)に奉げたい。社長の激励には大いに励まされ感謝の気持ちで一杯です。
3つ目は山口市在住の姉に奉げます。いつも温かい激励の手紙を貰い言葉では尽くせない感謝の気持ちがあります。
4つ目は家内に渡します。本番だけでなく練習も含め随分と自分だけの我侭な時間を使っているが理解を示してくれたことに感謝。
5つ目は声援を頂いた周りの多くの友人と何分の一かは少しの勇気と努力をした自分自身にも渡したい。
最後になりましたが、実行委員会、スタッフ、ボランティアの皆さんに心から感謝と御礼を申し上げます。
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